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むつ市の遺跡 酪農(3)現地見学会に参加(3) [歴史・古代史]

こん〇〇は!いつもご訪問いただきありがとうございます。


むつ市の酪農(3)遺跡の現地見学会の続編(その3)です。


環状列石は葬送の場と考えられていると書きましたが葬送の場と同時に”生”へに対する祈りの場でもあった可能性があるそうです。

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こちらの画像は配石遺構を写したものです。
左下の大きな礫(レキ)ではなく説明員の方が指している部分に注目。

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当該部分を拡大。

 この部分、小さめの石を円を描くように並べてその中心に土器を埋めて傍らに石柱(折れて転がっています)を立てているそうです。
 縄文時代、土器は女性を表して石柱は男性を表していたのではないかということでこの配石遺構は”生”を「出生」の祈りのシンボルであたかも知れないとのことでした。
 環状列石遺構は死者を弔う葬送の場と”生”を表すシンボルが同じ場所にあるというのはまさに”生と死”のサイクルが延々と”円”のように繋がっていくことへの畏敬の気持ちを表す場、将来の反映への祈りの場であったのではないでしょうか?


ここの遺跡のメインは環状列石遺構になりますが環状列石の周辺部からは竪穴建物跡や掘立柱建物跡なども見つかっています。

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この遺跡が発見された周辺は植林がされている場所でその際に重機などが使われ遺跡の一部も破壊されていると思われるそうです。

環状列石の使われた礫(レキ)も本来はもっと埋まっていたのかもしれません。

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このように発掘現場に残る重機の爪痕もしっかりと”出土”しました。

ちょっとしたの作業レベルでのトラクターや耕運機で土を掘り返すくらいでは青森県の場合は遺跡の地層まで到達することはまれなのだそうですが長いもの収穫に使う深堀りのイモ掘り機や建設用重機などは機械の爪先が遺跡のある層まで届いてしまうそうです。
 こちらに遺跡は今のところこれ以上の大発見がなければ予定通り崩されて下北縦貫道(下北道)の道路の下になるそうです。


遺物は段ボール箱で300箱分が出土しているそうですがその一部を見せていただきました。
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こちらは土器片


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これは土偶で人面のようですね
なんか身近に似たような顔の人を知っています。

この土偶のモデルの子孫かもしれませんね


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こちらも土偶ですが動物を象ったものです。
はじめ猪かと思ったらどうやら熊のようです。

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土器の把手部分についていたのではないかということでした。
土器片も、土偶も触ってもいいといわれましたが怒れ多くて触れませんでした。
今でもこの遺跡の周辺には野生の熊が出没するのですが遺跡の調査中にも崖の上から熊が滑り落ちて来たそうです。
縄文時代には熊は食用にもなったそうですが獲るのにはやはり縄文人は命がけだったと思います。


そして個人的には一番興味を持った遺物がこれです。

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丸い皿のようなものに4本の脚のようなものが刺さっています。
ちゃぶ台をひっくり返したような土器です。


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まずお皿のような部分の土器片が見つかり組み合わせてみたら
ところどころ穴が開いていてその後周辺から4本の客のようなものが見つかり
試しにそれを皿の穴の開いた部分に挿してみたらピッタリと合わさったそうです。
皿と脚部は当時の接着剤のようなもので固定されていたような跡もあるそうです。
 脚部を下にしてちゃぶ台の形にしてお供え物の器の様に当時も使っていたのか?

と考えてみましたがお皿の部分は画像にある面が裏面よりも明らかにきれいに成型されていてちゃぶ台のように使うとその天板面がちょっと雑な仕上がりになっちゃうそうです。

 脚部を上にして使っていたとするといったいに何に使ったのか皆目見当がつきません。
この土器について埋蔵文化財調査センターの方といろいろお話しすることができて楽しい時間を過ごせました。
自分は何かの建物のミニチュアで集団で作業する際の設計図のようなものでは?という仮説をたてました。

センターの職員の方は特に否定もせず、うんうんと頷いてくれましたがいつの日かこの土器の使い道がわかる日が来るのかなぁ?

古代遺跡は本当にロマンがありますね



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むつ市の遺跡 酪農(3)現地見学会に参加(2) [歴史・古代史]

こん〇〇は!いつもご訪問いただきありがとうございます。
先週(8/6)熱中症警戒アラートが青森にも発令された暑い日にむつ市で行われた酪農(3)遺跡の現地見学会の続きです。

 酪農(3)遺跡は縄文時代前期~後期、特に後期初頭~前葉の遺構が多い遺跡です。

建設中の下北半島縦貫道にかかわる発掘調査で見つかりました。
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丘陵部のとっかかりの急斜面を登りきった平坦な場所で案内役の県埋蔵文化財調査センターの職員の方が説明を始めてくれます。
 この平坦な場所に前回も書いた通りこの遺跡の最大の特徴である環状列石遺構(ストーンサークル)が見つかりました。
 環状列石は礫(レキ)と呼ばれる石を同心円状に並べた遺構で上の画像では見えにくいのですが右側に大きな礫が奥に向かってちょっと弧を描いて並んで置かれているのがお分かりになるでしょうか?

 ここの環状列石の直径は20mほどあるそうで平面レベルではちょっとその全景を実感できませんね、もう少し小高い場所から全景を見たいのですがここがほぼ最高地点なのでこんな感じで失礼します。

この環状列石がある場所は丘陵部の途中にあります。
 本来なら斜面でなければならない場所がこうして平坦に均されていますがこれは縄文人がここの場所を造成して作った場所なのだそうです。

今から約4,000年前の縄文人による土地造成工事でできた土地に私たちは立っていました。
 ここを削って出た土砂は上の画像奥の斜面に投棄したのだそうでその痕跡も発見されています。
 この酪農(3)遺跡は作られた年代と作り方(手順)がわかる貴重な遺跡なのだそうです。

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▲この斜面に土地造成時に出た土を上から投げ捨てたようです。
残土に混ざって土器や土偶の破片も見つかっています。

縄文人は何故このような当時としては大掛かりな土木工事までしてこんな斜面に平坦な場所をつくったのか?
 ここから東側には陸奥湾から続く平地が広がっているのでただ環状列石を作るのなら土地造成までしなくても場所はいくらでもあったはずなのでは?と思いますが縄文人にとって環状列石がある場所はこの”土地の高さ”も重要な意味を持っていたのかもしれません。

 あるいはこの丘陵地に住んでいた集落の人たちのための施設なので土地造成をしてまでもここに造ったというのか?

そもそもなぜ縄文人はこんな環状列石を作ったのか?
 環状列石の役割については葬送にかかわる遺構ではないかという考えが主流です。
その理由は環状列石の外側(あるいは内側に沿って)にお墓の遺構が見つかることが多いということです。
 当時の北東北では死者を骨になるまで森の奥などに一旦放置
(モガリ)したうえで骨になったら甕(カメ)などの土器に入れて埋葬する再葬という弔い方をしていたようです。

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▲土器の埋設状況(四角に掘られた穴の側面に土器が埋まっています)

 ここでも人骨が入った再葬土器墓が見つかり現在人骨の鑑定が進められているそうです。
また環状列石の中央部は広場になっていてこうした死者に対する葬送の場、祈りの場となっていた可能性もあります。
 広場に日時計のような石柱があるケースもあるようですがここの遺跡からは見つかっていません。


平坦なレベルからの撮影では全体像が分かりにくいのでちょっと画像をお借りしました。

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▲遺跡の全体画像(県埋蔵文化
財調査センターのHPより)
 画像中心部から同心円状に白く写っている礫が並んでいるのがわかります。
完全な環状に礫が出土していませんがこれは近年の造林事業により重機で破壊されたためかあるいはもともとサークルを完成させていなかったのか?
 古代人にとってはサークルは死と再生のサイクルの象徴だったとして、あえて円を完成させずに未完としてその永続性を願ったのかも?という説もあります。
 ただ他の環状列石と比べても出土する礫の数が圧倒的に少ないのは何かほかに理由があるのかもしれません。
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この列石を構成する礫ですが角のとれていない大きな石が特徴なのですがこうした石(礫)は主に川の上流や中流で採れるものなのだそうです。(下流の石は角が取れている)
 ここから最も近い青平川(2Kmほどの距離)から縄文人が運んできた可能性があるそうなので実際に現地に行って同じような石が見つかるか今後調査するそうです。

 また恐山で採れる石にも似ているという話もあるそうです。
その場合、噴石なのかちょっと距離があるけど取りに行ったのか?
 また見つかった礫は結構大きなものが多く独りで抱えて運べるようなものばかりでないそうなので運搬方法についても謎が残ります。
 ただこうした環状列石遺構に共通する特徴として木の伐採に使っていたと思われる磨製石器の出土数が多いという点がありここの遺跡でも同様の傾向があるそうなので何らかの方法で木を道具(ソリや担ぎ棒)として礫を運搬していたのではないかという説明もありました。
 このような大規模な土木工事に大きな礫の運搬といずれも共同作業が伴う環状列石の造営に単独の集落だけで作業が行われたとは考えにくく周辺集落による共同作業で造られた共有施設だったのかもしれません。


画像が少なくしかも長文になってしまっていますが悪しからずご了承ください。

もう少しこの遺跡の話題が続きます。
当記事は当日配布された資料と説明員の方のお話に私の私見も交えて構成しています。

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むつ市の遺跡 酪農(3)現地見学会に参加(1) [歴史・古代史]

こん〇〇は!いつもご訪問いただきありがとうございます。

青森県にも熱中症警戒アラートが発令された2021年8月6日、隣町のむつ市にある酪農(3)遺跡現地見学会に参加してきました。


遺跡の発掘調査の見学会に参加するのは2019年以来です。
2019年の遺跡見学は家のすぐそば(徒歩3分)のところにある林ノ脇遺跡と近隣の猪ノ鼻遺跡でした。
両遺跡見学会の様子が地元新聞に掲載されましたがその両方ともに自分の姿が映った写真が掲載されちゃいましたがこの日は新聞社の記者の姿はなくちょっと安心です。
新聞に載ると結構、いろいろな人から見たよ~と連絡が来ます。
悪いことで載らないように気を付けます。
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受付で頂いた資料にも大きく書かれていますがこの遺跡の特徴は下北地域で初めての環状列石遺構が見つかったことです。
縄文時代後期(4000年前【紀元前2000年】)のものとみられています。
環状列石はストーンサークルともよばれる礫(レキ)と呼ばれる大小さまざまな石をサークル状に並べて配置した遺構です。
大変珍しい遺構なので昨年、発見のニュースを聞いた時から現地見学会に参加したいと思っていました。

遺跡の名称に酪農とありますが古代の酪農に関する遺跡では所在地がむつ市大字田名部字酪農第3ということからついた名称です。
もともとこの辺りは戊辰戦争で官軍に破れた会津藩士が藩まるごとこの地に移封され斗南藩として再出発した土地で明治政府発足後もこの地に残った会津藩士が開拓した土地で寒冷な土地なので農業ではなく当時、西洋式牧場経営が導入されて間もない時期でしたが旧会津藩士は積極的この新事業に乗り出しました。
青森県では三沢市周辺でも旧会津藩の重臣などが開拓した牧場があります。


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受付を済ませて遺跡に向かいます。
この遺跡は現在整備中の下北半島縦貫道(下北道)の工事に伴い発掘調査が行われている現場です。
私がこれまで見学した遺跡もすべて道路工事に伴って発掘調査されたものでした。

遺跡のある場所は陸奥湾から4kmほど離れた丘陵地帯です。
ちょうど受付があった平坦な場所からこのように少し斜面を登ったところに環状列石遺構があります。
写真中央には急遽見学者用の日陰が用意されていました。

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この日はこんな急斜面で発掘作業が続けられていました。
真夏の発掘調査現場はどこもこのような炎天下の下での過酷な作業で作業員の方には頭が下がる思いです。
この斜面はこの上にある環状列石のある遺跡中心部を平らに整地した際の残土や土器などを捨てた捨て場なのだそうです。

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斜面を上がりきるとその先は平坦な土地が開けています。
自然のままの地形ではこの先も傾斜面が少し先まで続くはずなのですが縄文人はここの斜面を削ってわざわざ平坦な土地を造成したとのことです。
古代人の土地造成、土木工事ですね

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斜面を削って平坦に造成した場所に環状列石をはじめとした遺構が点在しています。
現代人の目からしても綺麗な造成工事ですね
ここから県埋蔵文化財調査センターの職員の方の説明が始まります。

続きは次回ということに・・・

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林ノ脇遺跡見学説明会 後編 [歴史・古代史]

今回も自宅近くで発掘が進む林ノ脇遺跡の現場説明会の様子の後編です。

三内丸山遺跡を筆頭に遮光器土偶や合掌土偶など古代遺跡や出土品の多い青森県ですがここ横浜町林ノ脇遺跡も縄文期~平安期の遺跡であることが分かっています。
竪穴式住居跡については縄文期のものはなく弥生後期~平安期のものとなります。

発掘現場の全景(上空より撮影) 画像上が北側になります。

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現場がひし形(並行四辺形)になっていますが画像の南北に延びる左右のライン(境界)の幅が下北半島縦貫道路の道路幅になりそうです。
下北半島縦貫道路(下北道)は本州側の野辺地から横浜町を通りむつ市に至る自動車専用道路で現在は野辺地―吹越IC(横浜町)間が開通していて現在はこの遺跡のある横浜ICまでの建設工事が進んでいます。
やはり途中の横浜町百目木(どめき)地区の道路建設現場でも遺跡が見つかり調査が行われました。


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GoogleEarthで発掘現場周辺の様子を見てみます。
まだ発掘開始前の画像ですが白線内が発掘現場で半分ほど耕作されていたようです。
発掘現場の北側の白いラインから道路に挟まれた畑が親戚の畑でした。

左端が国道279号横浜バイパスでV字型の建物が道の駅よこはま(菜の花プラザ)。
左下隅の流が三保川で現場は河岸段丘上にあり現状では南側斜面を下ると三保川の河原に出ますがかなり急峻な崖になっています。
古代人が好む南に面したなだらかな土地に弥生後期~平安時代の住居跡がありました。


現場説明会の後は現場事務所内での出土品の展示を見学します。

林ノ脇遺跡では縄文時代・弥生時代の土器や石器、平安時代の土師器や須恵器、石製品の他に鉄製品が出土しています。
人骨や動物の骨などは見つかっていません。

[かわいい]林ノ脇遺跡の詳細についてはこちら(県埋蔵文化財調査センターのサイト)
この遺跡の発掘過程や現場説明会の様子も見ることができます。



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縄文時代の土器と石器
下段左の削器(そっき)は木を削ったりするスクレイパーだったのかも?
下段真ん中は掻器(そうき)で動物の皮をなめしたりするのに使われた可能性があります。
下段右は石錐(いしきり)で薄いものに穴をあける道具だったとの説です。


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縄文時代の三角形の石皿と磨石(すりいし)
木の実を磨り潰して粉にするさいの石臼のような使い方をした?


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こちらは平安時代の土器
縄文式土器のような表面に模様が無くあっさりした印象。
平安時代にはこの遺跡は狩場から住宅地(集落)に用途変更されたようです。


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平安時代の支脚はカマドで煮炊きに使った土器や甕を支える道具だったようです。
火口の地面に挿して平たい台の上に土器を載せて(支えて)使ったとのことでした。
空洞構造になっていてこの穴に棒かなにかを刺して地面い固定して安定させたのかなぁ?


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支脚の発掘時の様子です。地面に突き刺さっています。
この上がカマドですかね?

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平安時代の竪穴式住居跡の中には赤く焼けた土が見受けられどうやら鉄を作っていたようです。(鍛冶炉)
ムラの鍛冶屋さんが住んでいたのかもしれませんね。
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焼けた土は今でも上の画像に見えるように赤く変色したままで発掘されています。
意外とはっきりと分かります。
平安時代というと都の賑やかな街並みや宮中の雅な様子をイメージしますが蝦夷と呼ばれた本州北端に住む人々の生活はまだ竪穴式住居で暮らし自然を相手に日々暮らしていたのですねぇ


ここ林ノ脇遺跡の発掘調査は県の埋蔵文化財調査センターが主導して調査しています。
出土した遺物はおそらく県の管理になるものと思われます。
町の教育委員会が主導して調査したら町で管理するので適当な施設で展示されるのですが町にそんな経済的余力はなさそうなのでこれが見納めになるかもしれません。
センターの職員の方の話だと予算が付けば来年度も継続して発掘調査できるかもしれないとのことでした。
個人的には溝状土坑(落とし穴)に非常に興味をひかれました。

実際の使われ方をいろいろ想像して自分なりに勉強してみたいです。

にわか雨が降って外に出られなくなったので説明会の開催時間の2時間をフルに使ってセンターの職員の方と色々お話を伺う機会があり大変有意義な時間でした。


[かわいい]現場説明会の資料がPDF化されて配布されていますのでこちらをクリック

後日、地元紙の遺跡見学会の記事に写真入りで掲載されました。

カメラをぶら下げているのが私、落とし穴の説明をうけているところ
知り合いとそのお孫さんと一緒に写っています。
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タグ:林ノ脇遺跡
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林ノ脇遺跡見学説明会 前編 [歴史・古代史]

今日からSo-netブログ(ソネブロ)がSSブログへと変更になり今回が初の投稿です。
消費税も10%になりましたが今日はお金を一銭もつかっていないので増税の実感はまだないですね。

今回の話題は8月末とちょっと古い話題なのですが自宅のすぐ近所での遺跡の発掘現場での現場説明会の様子です。
私はこうした歴史もの考古学とか大好きで大学受験の際に私大の考古学講座のある学部を受験しようかとか真剣に考えていましたが卒業しても食っていけないぞと脅かされ結局、”不”経済学部に進んだのですが結局現状では食うのにやっとというありさまなので好きな道に進んでいてもよかったかなぁと人生折り返し地点をとうに過ぎた今となって後悔しています。

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さて自宅近くの遺跡とは“林ノ脇(はやしのわき)遺跡”という遺跡です(青森県横浜町)
道の駅の裏手の加工場の向かいの畑だった場所です。
数年後にここに下北縦貫道路のインターが建設されるのに合わせて発掘作業が始まりました。
周辺に個人の住宅は無く奥に見えているのは企業の寮で町内では数少ない大型施設。
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青森県埋蔵文化財調査センターのHPよりお借りしたドローン画像。
南から北方面を望む。画像中央の土が露出した場所が発掘現場。
左手は陸奥湾で国道279横浜バイパスの交差点に道の駅よこはま(菜の花プラザ)が見えます。画面下から左手には三保川の流れ、右手側は山林が続き山越えをするともう太平洋(六ケ所村)。


もともと掘ると土器の破片とかは出ていたような場所らしいです。

そしてこの場所は親戚の畑に隣接する場所で私も数年前までは場所を借りて家庭菜園程度に作物を植えていた場所です。


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道の駅寄り(西側)から東側を望む。
GW前から始まった発掘調査も10月末でいったん終了となるそうで8月末の時点でここまで掘り進められていました。

家から徒歩5分ほどの場所なのですが発掘現場を見たのは今日が初めてですぐ傍の地中にこのような遺跡があったとは驚きです。


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この日は青森県埋蔵文化財調査センターの専門職員の方の解説で現場説明会が行われました。
ここは平安時代の竪穴式住居の跡だそうです。
青森県内の遺跡では915年に十和田火山の大噴火があって地層にこの時の火山灰がどういう位置で積もっているかによってある程度の年代確認がわかるそうです。
915年は年号では延喜15年、醍醐天皇の御代でちょっと前に菅原道真が都を追われ怨霊として京都で大暴れ、もう少し経つと陰陽師・安倍晴明が生まれるころです。
ちなみに朝鮮半島の白頭山が946年大噴火しているのでこの2つの大噴火の火山灰の層の間の地層は約30年しかないのでこれまた年代確定の指針にはうってつけ。
この遺跡は縄文・弥生・平安の複合遺跡ということがわかっています。


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竪穴式住居も平安時代になると円形ではなく方形になって壁のようなものが付くようになるそうです。


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こちらは竪穴式住居跡の外周にある壁の跡だそうです。

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この遺跡での平安時代の竪穴式住居跡は大きさで2種類に分類されて一辺4mほどの小型のものはカマドの煙道(煙突の役割)が半地下構造で住居外になっているタイプ。
カマド周辺は土が赤く変色して出土しているのでよくわかります。

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平安時代の大型タイプの竪穴式住居跡。
一辺8mほどのサイズでカマドの煙道が住居内に収まるものが多いとのこと。
十字型に残っている部分は年代調査のために残している部分のので当時はこんなものはもちろんありません。

この遺跡では縄文・弥生・平安の遺跡が見られるのですが住居跡については弥生後期~平安のものだけで縄文時代の住居跡は見つかっていません。
ただし縄文時代のもので面白いものが多数見つかっています。
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溝状土坑(Tピット)が28基確認されていて縄文の落とし穴だそうです。

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深さは1m以上あるものもあるようで動物が落ちても即死するようなことはなく生け捕りにするための落とし穴ではと考えられています。
ウサギなどの小動物はそのままストンと落ちて生け捕り、鹿や猪などは落ちたら脚を骨折して逃げられないはず。
人が落ちても骨折しそうな感じ。
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遺跡の中での位置は南側に並んで見つかっています。
この落とし穴の先には川が流れていて水場にやってくる動物を狙った仕掛けではとのことでした。
今でもここら辺を軽トラで走ると時々カモシカやニホンジカを見かけます。(熊もいます)

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遺跡上空からの画像で下側(南)に列羽状に見える筋が縄文時代の落とし穴。
縄文の落とし穴の上に平安時代の竪穴式住居跡が見られるの縄文時代は狩場で平安時代には生活する場になったのかも?

今でこそこの遺跡周辺に住んでいる人はいないのですがセンターの方の話だと縄文や弥生、平安期の古代人が住んでいた場所は今でも災害にも強い場所が多いということでした。
いわれてみると納得です。
洪水や土砂崩れなどがない場所だからこそこうして遺構が発掘によって見つかるのだなぁと思いました。
この遺跡は発掘調査が終われば壊されて盛土され自動車専用道路の下にまた埋もれてしまいますが災害に強い場所に建設される道路ならある意味安心できます。
隣は道の駅で新鮮な野菜が買えるしその隣はローソン。道路を挟んだ反対側には小学校や保健センター、川を挟んだ向かい側には中学校と今となれば好立地な住宅地になり得たかも・・でももうすぐ道路の下になっちゃうなだなぁ

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遺跡の北側も道路の建設予定地なのですが今は畑のままです。
実は冒頭にも書いた通りこの先は親戚の畑で最近までトウモロコシを植えていました。
私も間借りして作物を植えていたのですがちょうどこの看板の先で呑気にもヤーコンなんかを植えていました。
小型の耕運機も使って深くまでロータリーをかけていたのですが来年以降この先も調査する予定になるかもといっていたのでちょっと心配です。
ここら辺では名産の長いもを栽培するとものすごく深くまで土を耕すので遺跡などが破壊されることが多いそうです。
そのおかげで見つかる遺跡もあるのですが・・・

もう親戚の畑は道路用地で収容されていますので耕作はしていません。
この遺跡は結構浅い場所で見つかっているそうで余計に心配。

長々と書いてしまったので出土品関連は次回に・・

[かわいい]青森県埋蔵文化財調査センターのサイトへ(こちら

タグ:林ノ脇遺跡
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