こん〇〇は!いつもご訪問いただきありがとうございます。
先週(8/6)熱中症警戒アラートが青森にも発令された暑い日にむつ市で行われた酪農(3)遺跡の現地見学会の続きです。

 酪農(3)遺跡は縄文時代前期~後期、特に後期初頭~前葉の遺構が多い遺跡です。

建設中の下北半島縦貫道にかかわる発掘調査で見つかりました。

丘陵部のとっかかりの急斜面を登りきった平坦な場所で案内役の県埋蔵文化財調査センターの職員の方が説明を始めてくれます。
 この平坦な場所に前回も書いた通りこの遺跡の最大の特徴である環状列石遺構(ストーンサークル)が見つかりました。
 環状列石は礫(レキ)と呼ばれる石を同心円状に並べた遺構で上の画像では見えにくいのですが右側に大きな礫が奥に向かってちょっと弧を描いて並んで置かれているのがお分かりになるでしょうか?

 ここの環状列石の直径は20mほどあるそうで平面レベルではちょっとその全景を実感できませんね、もう少し小高い場所から全景を見たいのですがここがほぼ最高地点なのでこんな感じで失礼します。

この環状列石がある場所は丘陵部の途中にあります。
 本来なら斜面でなければならない場所がこうして平坦に均されていますがこれは縄文人がここの場所を造成して作った場所なのだそうです。

今から約4,000年前の縄文人による土地造成工事でできた土地に私たちは立っていました。
 ここを削って出た土砂は上の画像奥の斜面に投棄したのだそうでその痕跡も発見されています。
 この酪農(3)遺跡は作られた年代と作り方(手順)がわかる貴重な遺跡なのだそうです。


▲この斜面に土地造成時に出た土を上から投げ捨てたようです。
残土に混ざって土器や土偶の破片も見つかっています。

縄文人は何故このような当時としては大掛かりな土木工事までしてこんな斜面に平坦な場所をつくったのか?
 ここから東側には陸奥湾から続く平地が広がっているのでただ環状列石を作るのなら土地造成までしなくても場所はいくらでもあったはずなのでは?と思いますが縄文人にとって環状列石がある場所はこの”土地の高さ”も重要な意味を持っていたのかもしれません。

 あるいはこの丘陵地に住んでいた集落の人たちのための施設なので土地造成をしてまでもここに造ったというのか?

そもそもなぜ縄文人はこんな環状列石を作ったのか?
 環状列石の役割については葬送にかかわる遺構ではないかという考えが主流です。
その理由は環状列石の外側(あるいは内側に沿って)にお墓の遺構が見つかることが多いということです。
 当時の北東北では死者を骨になるまで森の奥などに一旦放置
(モガリ)したうえで骨になったら甕(カメ)などの土器に入れて埋葬する再葬という弔い方をしていたようです。


▲土器の埋設状況(四角に掘られた穴の側面に土器が埋まっています)

 ここでも人骨が入った再葬土器墓が見つかり現在人骨の鑑定が進められているそうです。
また環状列石の中央部は広場になっていてこうした死者に対する葬送の場、祈りの場となっていた可能性もあります。
 広場に日時計のような石柱があるケースもあるようですがここの遺跡からは見つかっていません。


平坦なレベルからの撮影では全体像が分かりにくいのでちょっと画像をお借りしました。


▲遺跡の全体画像(県埋蔵文化
財調査センターのHPより)
 画像中心部から同心円状に白く写っている礫が並んでいるのがわかります。
完全な環状に礫が出土していませんがこれは近年の造林事業により重機で破壊されたためかあるいはもともとサークルを完成させていなかったのか?
 古代人にとってはサークルは死と再生のサイクルの象徴だったとして、あえて円を完成させずに未完としてその永続性を願ったのかも?という説もあります。
 ただ他の環状列石と比べても出土する礫の数が圧倒的に少ないのは何かほかに理由があるのかもしれません。

この列石を構成する礫ですが角のとれていない大きな石が特徴なのですがこうした石(礫)は主に川の上流や中流で採れるものなのだそうです。(下流の石は角が取れている)
 ここから最も近い青平川(2Kmほどの距離)から縄文人が運んできた可能性があるそうなので実際に現地に行って同じような石が見つかるか今後調査するそうです。

 また恐山で採れる石にも似ているという話もあるそうです。
その場合、噴石なのかちょっと距離があるけど取りに行ったのか?
 また見つかった礫は結構大きなものが多く独りで抱えて運べるようなものばかりでないそうなので運搬方法についても謎が残ります。
 ただこうした環状列石遺構に共通する特徴として木の伐採に使っていたと思われる磨製石器の出土数が多いという点がありここの遺跡でも同様の傾向があるそうなので何らかの方法で木を道具(ソリや担ぎ棒)として礫を運搬していたのではないかという説明もありました。
 このような大規模な土木工事に大きな礫の運搬といずれも共同作業が伴う環状列石の造営に単独の集落だけで作業が行われたとは考えにくく周辺集落による共同作業で造られた共有施設だったのかもしれません。


画像が少なくしかも長文になってしまっていますが悪しからずご了承ください。

もう少しこの遺跡の話題が続きます。
当記事は当日配布された資料と説明員の方のお話に私の私見も交えて構成しています。