今回も自宅近くで発掘が進む林ノ脇遺跡の現場説明会の様子の後編です。

三内丸山遺跡を筆頭に遮光器土偶や合掌土偶など古代遺跡や出土品の多い青森県ですがここ横浜町林ノ脇遺跡も縄文期~平安期の遺跡であることが分かっています。
竪穴式住居跡については縄文期のものはなく弥生後期~平安期のものとなります。

発掘現場の全景(上空より撮影) 画像上が北側になります。


現場がひし形(並行四辺形)になっていますが画像の南北に延びる左右のライン(境界)の幅が下北半島縦貫道路の道路幅になりそうです。
下北半島縦貫道路(下北道)は本州側の野辺地から横浜町を通りむつ市に至る自動車専用道路で現在は野辺地―吹越IC(横浜町)間が開通していて現在はこの遺跡のある横浜ICまでの建設工事が進んでいます。
やはり途中の横浜町百目木(どめき)地区の道路建設現場でも遺跡が見つかり調査が行われました。



GoogleEarthで発掘現場周辺の様子を見てみます。
まだ発掘開始前の画像ですが白線内が発掘現場で半分ほど耕作されていたようです。
発掘現場の北側の白いラインから道路に挟まれた畑が親戚の畑でした。

左端が国道279号横浜バイパスでV字型の建物が道の駅よこはま(菜の花プラザ)。
左下隅の流が三保川で現場は河岸段丘上にあり現状では南側斜面を下ると三保川の河原に出ますがかなり急峻な崖になっています。
古代人が好む南に面したなだらかな土地に弥生後期~平安時代の住居跡がありました。


現場説明会の後は現場事務所内での出土品の展示を見学します。

林ノ脇遺跡では縄文時代・弥生時代の土器や石器、平安時代の土師器や須恵器、石製品の他に鉄製品が出土しています。
人骨や動物の骨などは見つかっていません。

#59128;林ノ脇遺跡の詳細についてはこちら(県埋蔵文化財調査センターのサイト)
この遺跡の発掘過程や現場説明会の様子も見ることができます。









縄文時代の土器と石器
下段左の削器(そっき)は木を削ったりするスクレイパーだったのかも?
下段真ん中は掻器(そうき)で動物の皮をなめしたりするのに使われた可能性があります。
下段右は石錐(いしきり)で薄いものに穴をあける道具だったとの説です。



縄文時代の三角形の石皿と磨石(すりいし)
木の実を磨り潰して粉にするさいの石臼のような使い方をした?



こちらは平安時代の土器
縄文式土器のような表面に模様が無くあっさりした印象。
平安時代にはこの遺跡は狩場から住宅地(集落)に用途変更されたようです。





平安時代の支脚はカマドで煮炊きに使った土器や甕を支える道具だったようです。
火口の地面に挿して平たい台の上に土器を載せて(支えて)使ったとのことでした。
空洞構造になっていてこの穴に棒かなにかを刺して地面い固定して安定させたのかなぁ?



支脚の発掘時の様子です。地面に突き刺さっています。
この上がカマドですかね?


平安時代の竪穴式住居跡の中には赤く焼けた土が見受けられどうやら鉄を作っていたようです。(鍛冶炉)
ムラの鍛冶屋さんが住んでいたのかもしれませんね。

焼けた土は今でも上の画像に見えるように赤く変色したままで発掘されています。
意外とはっきりと分かります。
平安時代というと都の賑やかな街並みや宮中の雅な様子をイメージしますが蝦夷と呼ばれた本州北端に住む人々の生活はまだ竪穴式住居で暮らし自然を相手に日々暮らしていたのですねぇ


ここ林ノ脇遺跡の発掘調査は県の埋蔵文化財調査センターが主導して調査しています。
出土した遺物はおそらく県の管理になるものと思われます。
町の教育委員会が主導して調査したら町で管理するので適当な施設で展示されるのですが町にそんな経済的余力はなさそうなのでこれが見納めになるかもしれません。
センターの職員の方の話だと予算が付けば来年度も継続して発掘調査できるかもしれないとのことでした。
個人的には溝状土坑(落とし穴)に非常に興味をひかれました。

実際の使われ方をいろいろ想像して自分なりに勉強してみたいです。

にわか雨が降って外に出られなくなったので説明会の開催時間の2時間をフルに使ってセンターの職員の方と色々お話を伺う機会があり大変有意義な時間でした。


#59128;現場説明会の資料がPDF化されて配布されていますのでこちらをクリック

後日、地元紙の遺跡見学会の記事に写真入りで掲載されました。

カメラをぶら下げているのが私、落とし穴の説明をうけているところ
知り合いとそのお孫さんと一緒に写っています。